マンガについて
- shirobeeshobo
- 2016年2月17日
- 読了時間: 2分
僕は、漫画の中の絵が、フキダシに侵食されるのを嫌います。
特に、先に絵を描いてしまって、思い出して吹き出しを描きこむ時なぞは、いかに絵の邪魔をさせずに入れこむか、また、フキダシそのものが一つの飾りのようになるかを考えます。
場合によっては、想定していたネームを大幅に削る時だってあります。
その結果、漫画というより、一種の絵本のようにセリフの文字が厳選されてしまう時だってあります(絵本の批判ではなく、厳選するつもりがないのに厳選されてしまうことを悲観しているのです)。
それでもフキダシは容赦なくその漫画の絵達を蝕みます。
世間の漫画は、フキダシしかないんじゃないかな、というくらいフキダシばかりで画面が埋まっております。それはまるで、フキダシのオマケとして絵が描かれているようにも見えます。
そもそも本棚の邪魔にならないA5本というサイズのフィールドの中で、いったいどれほどの絵が描けるというのでしょうか?(A4サイズの漫画もたくさん発売されていますが、なるべく大きいサイズの本は所有したくないですよね)
私は線が好きで、ドローイングというものが好きで絵を描いているので、ペン画で細密に描いて縮小したような絵は好みません。それらは、いくら精巧に描かれていても、一本の線そのものを楽しむことが出来ないからです。
表現としておかしいかもしれませんが、一本の線を迷路のように辿っていけるような絵が好きなのです。僕は写真やペイントに見る芸術性といっしょくたにドローイングを見ているわけではありませんので。
どれほど描き込まれていても、縮小されてか細くなった線には、もはや線画としての生命力はないのです。
雰囲気や情景を情報として得ることは出来ても、その線の楽しさ、鉛筆(またはペン)を握って紙にこすり付けてる感覚というものは消し去られているように思います。
漫画というものは本来、一文で言えば、誰に頼まれるでもなく子供やなんかがそのへんのちり紙に描きこむような類のものであると思います。
そうして描きこまれた漫画には、商品性こそなけれども、その臨場感と申しましょうか、情感のようなものがにじみ出ているものだと思います。
かといって、最近流行りの脱力系の漫画のように、ただやみくもに雑にかきゃぁいいってもんじゃあないんですがね。
(文・しろうべえ)
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